CULTURE IS PARANOID!
結局サブカルってなんなのか?90年代サブカル筆頭だった「アニメ文化」は今やメインカルチャーである。「主流ではない」や「マイノリティである」この辺りが正しいサブカルの定義にはなると思うが、前述の通り「アニメ文化」は今や日本を飛び越え世界のマジョリティ代表選手だ。結果サブカルは時代の流れや社会への貢献によってサブカルのままに留めておくことができないナマモノである。
そもそもサブカルチャーとは1960年代からのカウンターカルチャー(反体制文化)の派生であると私が崇拝するウィキペディアには記載されている。ということは少なからず今のサブカルチャーにもアナーキストの文脈が流れているということになる。主流に対する反発であったり、社会との乖離であったり、そしてそれが偏執的な愛情に代替されることは少なからずあるように思う。90年代私はシアトルのMODEST MOUSEというバンドの熱狂的なファンであった。メンバーが増えていき、それとともに人気者になっていく。本当はうれしく思うはずの想いが急激に萎んでしまう。(余談だが来日時新宿LOFTに見に行った際、アイザックが着ていたニットは裏返し。途中で脱いだらTシャツも裏返し。相当ひねくれものなんだろうなあ・・・と思ったことを覚えている)これは私だけが持つ体験ではないはず。今までは少数派という妄想の独占欲が満たされることがサブカルチャーの本筋だったのかもしれない。(もちろんマス化しても応援し続ける人が本当のファンである事に疑いはないが・・・)
現代におけるサブカルチャーとは何なのか?それは「視点」なのではないかと思う。「何が流行っているか」や「次にくるものは何か」ではなく、「そのカルチャーにどう向き合っているか」という自分のあり方なのだと思う。対象がメインカルチャーになったとしても「その対象物にどこまで深く偏愛できるか」という姿勢がサブカル的視点なのではないか。
その「大衆的」とのズレが「こだわり」へと昇華しパラノイド化する。これはまさしく「愛」である。ジョンが歌った「ALL YOU NEED IS LOVE」なのである。
だからこそTOKIWAはキワをせめる。それは大衆化に対するアンチテーゼとしてだけではなく、ギリギリをせめている人がただただカッコいいからである。マイノリティ、ニッチ、アングラ、シニカル。個人の個性が尊重される時代だからこそ、堂々と端っこを歩くというメッセージをプリントに載せて・・・