コレクション: Music Side

音楽はいつも、時代の“キワ”に生きてきた。90年代、ジュリアナ東京の煌びやかな照明の下でボディコンが舞い踊る一方、下北沢のライブハウスでは汗だくのバンドマンが「人生」を叫んでいた。俺が心惹かれたのは後者だ。グラマラスじゃない、雑多でノイズ混じりの“音”たち。メインストリームに届かない音。でも、それが何より“生”を感じさせた。

あの頃の音楽は、叫びだった。自分の存在を、社会から置いてけぼりにされた若者が証明するための手段だった。CDショップの試聴機、レンタル屋の新譜コーナー、タワレコの手書きポップ。すべてが“発見”だったし、“出会い”だった。音楽はSNSのように手軽ではなかった。だからこそ、偶然が価値だったし、偶然はドラマだった。

あの時代のバンドたちは、誰かに選ばれることを待たなかった。選ばれなければ自分で音を出し、自分でCDを焼いた。インディーズという響きに、誇りと敗北が同居していた。勝ち組には見えなかったけど、彼らの音には確かな「存在証明」が宿っていた。

今の音楽がつまらないとは言わない。クオリティは高いし、届ける手段も広がった。でも、時々思う。あの時代の「キワ」の熱量が、どこかに置き忘れられていないか、と。

端っこにいた奴らが、自分の居場所を音で作っていた90年代。メインストリームになれない、けれど絶対に無視できない、そんな音楽たち。俺は今もそういう音にしか心が動かない。テクニックや再生回数じゃない。“切実さ”のある音。自分をさらけ出すことにしか意味を見出せない音。そういう音楽がまた“端っこ”から響いてくるのを、俺は今も待っている。

キワ。それは、敗北と誇りがせめぎ合う場所。だからこそ、最も人間らしい場所。