FEATURE
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LOGO to Kiwa
ロゴは、ただの記号じゃない。それは叫びだ。主張だ。存在証明だ。名前を持たない連中が、自分たちの言葉を持ちたくて作った旗。それがロゴだと思う。 90年代、ロゴは“チームの証”だった。ブランド名を背中にでかくプリントする。それは服じゃなく、自分の立ち位置を着てるようなもんだった。Supreme、STUSSY、X-LARGE。あの頃のロゴは全部、地下から這い上がった名刺だった。誰が作ったかより、どこで着るか。どこに立ってるか。そこに意味があった。 もっと小さな単位──スケーターのローカルブランド、仲間内のZINE、ハンドメイドTシャツ──にもロゴがあった。誰も知らなくても、自分たちが信じてればそれで良かった。完成度なんかどうでもいい。熱とノイズがあればそれで成立するのがロゴだ。 ロゴには、“カルチャーの匂い”がある。タイポのゆがみ、インクのにじみ、雑な配置。そこに整ってない感情が宿る。デジタルツールじゃ出せない、手汗と息遣いが乗ったリアルがある。ロゴはデザインじゃない。むしろ“思想の傷跡”に近い。 そして今──またロゴが息を吹き返してる気がする。誰もが発信者になれる時代、逆に「自分は何者か」を問い直す必要が出てきた。だからこそ、ロゴが必要なんだと思う。“俺たちはここにいる”を、一目で伝えるために。 ロゴはカルチャーの火種だ。名前じゃなくて、意味を背負うもの。端っこにいた奴らが、名前を持つために描いた、たったひとつのかたち。
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Street Side
90年代のストリートは、誰かに認められるためじゃなく、「自分が自分でいるため」に存在してた。流行なんて自分たちで作るものだったし、マニュアルなんてあえて無視してた。ファッションも、音楽も、スケートも、全部“我流”。誰かの真似なんかしてたら即ダサかった。自分の“芯”がない奴は、ストリートじゃ生き残れなかった。 原宿、渋谷、下北沢。路地裏に溜まるヤツらの目はギラついてた。学校も社会も信用してなかったけど、自分のスタイルだけは信じてた。着古したスウェット、破れたジーンズ、デカすぎるTシャツ。全部、自己表現。高価じゃなくても、ちゃんと“主張”があった。ブランドよりも、カルチャーを纏う感覚。 あの頃のストリートには、ヒリヒリするくらいの“切実さ”があった。大人に理解されなくて当然。というか、理解されることを望んでなかった。自分たちの世界は、自分たちだけで作る。それが誇りだった。ストリートは“反発”じゃなくて、“肯定”の場所だったんだよ。社会に「NO」と言いながら、自分には「YES」と言うための空間。 今のストリートは洗練されすぎて、ちょっと安全になりすぎた気もする。だけど、90年代のあの雑多なエネルギー、ちょっとダサくても魂むき出しだった感じ、俺はあれが好きだ。完璧じゃないから、真っ直ぐ響く。 ストリートは、本当は誰のものでもない。だからこそ、誰にでも開かれていた。ただし、“自分”を持ってるやつに限る。
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Retro Side
レトロって、単なる懐古趣味じゃない。忘れ去られて、埃をかぶって、それでも残ったもの。時代に置いてかれて、それでも「俺はまだここにいる」と言い続けてるものたちの声。俺は、そういうものに弱い。 昭和の看板、90年代の家電、分厚いブラウン管テレビ。全部、最前線からは引退してる。でもあいつらには“生き抜いた感”がある。打ち捨てられてなお輝く、そんなしぶとさがある。スーパーファミコンのリセットボタンの感触、ビデオテープのガチャッという音、電話機のダイヤルをゆっくり回す感覚。今の世の中にはもう必要とされてないけど、だからこそ“余白”がある。 今は何でも早くて、便利で、完璧に近い。でもレトロには“ムダ”がある。いちいち巻き戻したり、読み込みに時間がかかったり。だけど、そのムダの中に、感情が染み込んでいくんだ。手間が記憶を濃くする。アナログって、そういうものだと思う。 昔のポラロイド写真、色褪せたスニーカー、ノイズ混じりのカセットテープ。あれって、ただの古道具じゃなくて“過去の息吹”なんだよな。今じゃ手に入らない不完全さ。完成されすぎた今よりも、そこにある不器用さのほうが、よっぽど愛しい。 レトロはキワに生きてる。時代の主役にはなれなかったけど、誰かの人生の脇役として、確かに存在してた。だから俺はレトロが好きだ。機能じゃなくて、記憶で出来てるものたち。便利じゃないけど、忘れられない。 “古い”って言葉に、敬意を込めたい時代があるんだよ。
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MOVIE MONOLOGUE
僕が初めて映画というエンターテイメントに意識を強く抱いたのは小学 4年生の時に好意を持っていたさっちゃんを映画に誘い出したときだ。その時は2人で鑑賞するべき映画の選別なんてできっこなかった。とにかく2人でバスに乗って2人で映画を観て、親友のまこっちゃんもかっちゃんも知らない2人だけの時間を共有することが目的だった。そんな僕が選んだ映画がセイント・フォーの『ザ・オーディション』。惨敗だった。前の日まで一緒に綿密な計画を立てていた相棒のねーちゃんを恨んだ。そもそも相棒にねーちゃんを選んだことが失策であった。あいつは人の初恋なんてどうでも良い。オモロそうなことを自分の手でよりオモロくし、結果を聞いて爆笑することが生きがいの陰湿なやつだった。しかし、この小さなコミュニティの中で誰に相談できよう。友達に相談??無理だ。友達になんて言ってしまったら学校中の生徒から中傷の眼差しと質問攻めの刑になる。何よりさっちゃんには絶対にリスクを与えられない。母ちゃんか?いや、母ちゃんには黙っておこう。そもそもそういったセンスは壊滅的だ。金の工面だけお願いしたい。こういう時、母ちゃんは察して何も聞かず金をくれた。本当に空気の読めるやつだ。父ちゃん・・・論外だ。というわけで結果頼れる相棒はねーちゃんのみとなったわけだ。 世良公則初主演、映画の中でアイドルグループを結成し、それが本当にアイドルグループになるというフィクションとノンフィクションが一体となった斬新すぎる構成は面白かった。そう、僕の惨敗は僕がその映画を楽しみすぎたことだった。もちろん行きのバスの中では緊張で一言も喋れなかった。映画上演中はさっちゃんそっちのけで映画に一喜一憂し、帰りのバスでその映画の感想と考察を饒舌なまでにたたみかけた。さっちゃんはたまったもんじゃない。結果ねーちゃんのせいではない。全ては僕の幼さのせいだ。 僕の転校という形で初恋が強制終了し、僕は映画と音楽にのめり込んだ。90年代タランティーノからアバンギャルドとスタイリッシュな会話術を学び、リンチから現実という名の虚構を学び、ボイルから本当のかっこよさとファッションを学んだ。 中でも衝撃的だったのはラリークラークの『KIDS』だった。映画の中から当時のアメリカの若者のリアルを知り、アメリカの自由に憧れながら日本人で良かったと心底思えた不思議な体験だった。そしてショートカットのクロエ・セヴィニーが本当に可愛かった。 それから『ユージュアル・サスペクツ』。もうセリフを覚えられるくらい何回も観たのにまた観たくなる。あのラスト数分は何回見てもサブイボができる。今思えば錚々たるメンツが初々しく出演していることに驚かされるが、中でもデルトロは今でも最高に好きな俳優だ。男が思う男の色気が香ばしいほどに漂いすぎている。できればデルトロの顔に生まれたかった。当時美容室に行ってはデルトロの画像を見せ「デルトロにしてください」と言っていた。美容師は少し困惑していたのを覚えている。 映画はいつの時代も時代を切り取るナイフのようなものだと思っている。時に鋭く、時に鈍く。ただ切れ味の悪いナイフほど痛みが残る。だからこそ映画はどんなにつまらない内容でも見始めたなら最後まで諦めずに見ていただきたい。きっとどこかに監督のメッセージがあり、役者の想いがある。そしてそれが自分の人生に投影できた瞬間自分にとっての名作になる。よく「人生は映画だ」と言われるが、『ニュー・シネマ・パラダイス』では「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと厳しいものだ」とアルフレードは云う。だからこそ人生という映画は感動的になるのだとも思う。その後さっちゃんは立派にヤンキーを務めあげ、若くしてママになった。まこっちゃんは実家の牛舎を継ぎ、忙しくも平和な毎日を過ごしている。かっちゃんは高校卒業後だれも行方が分からなくなり、今も所在不明である。僕は自分探しが終わらず未だにフラフラしている。それぞれがそれぞれ自分の映画のエンディングに向かって物語を創っている。月並みだが、ぜひ自分が主人公の映画を最後まで楽しんでもらいたい。...
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Art Side
アートはいつも社会の“裏口”から入ってきた。正面玄関じゃない。誰も呼んでないのに、勝手に現れて、勝手に居座って、いつのまにか空気を変えてる。それがアートの本質だと思う。 90年代。ギャラリーなんかに縁のない奴らが、路地の壁にスプレー缶で自分を描いた。グラフィティ。誰に許されたわけでもないのに、その線には命が宿ってた。アートって何?って聞かれたら、「自分の存在証明だよ」って答えたくなる。それは描く側にも、観る側にも言えること。 売れるためでも、評価されるためでもなく、「ここにいた」という爪痕を残すためのもの。アートってそういうものだった。真ん中じゃなくて、隅っこから滲み出る感情がキャンバスを濡らす。自分のことを“凡人”と思ってる奴が、孤独と劣等感を絵の具に変える。それが一番強い。 あの頃のストリートカルチャーには、息苦しい社会に抗う美学があった。アートは反発だったし、告白だったし、時に叫びだった。「こうあるべき」に対する「うるせえよ」が、すべての作品に刻まれてた。 今、アートがビジネスになってる。それはそれでいい。でも俺は、誰にも見られなくても描く奴が好きだ。展示されなくても、売れなくても、描き続ける奴が好きだ。そういう奴のアートには、傷跡がある。綺麗じゃない。整理されてない。でもその“雑さ”にしか出せないエネルギーがある。 アートは“完成”しない。“正解”もない。だからこそ、端っこに生きる奴の感情を受け止めてくれる。自分の居場所がどこにもないと感じたとき、筆を取る。それは敗北じゃない。戦い方を選び直すという意思表示だ。 アートとは、社会の“キワ”に咲く雑草みたいなもんだ。踏まれても、抜かれても、気づけばまたそこに生えてる。誰にも管理されず、でも確かに美しい。 “キワ”には、まだ燃えてる心がある。誰にも見えなくても、そこには確かに“生”がある。
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LOVE IN THE '90s IS PARANOID!
90年代、我が国におけるバブル崩壊が始まる混沌とした時代。その一方でジュリアナ東京が芝浦にオープンし、明と暗がはっきりとし始める時代。それは人生における勝ち組と負け組がはっきりと線引きされる時代が始まったということ。俺は断然負け組が好きだ。それは幼少期から始まっている。ガンダムで言ったらカイ・シデン。キャプテン翼で言ったら森崎くんが好きだ。(正確にはどちらも負け組ではないが・・・)敗北者にはカタルシスが生まれる。幼少期の俺がその感情を汲み取っていたのかは定かではないが、齢50を迎える俺は今もヘタレだけが持つ哀愁に心惹かれる。疎外感、劣等感、擦り減る自尊心。ヘタレは常に端っこをメインストリートにしてきた。そしてヘタレのそばには常に音楽とアート、それぞれを救うカルチャーがあった。それは提供する側もまた端っこをメインストリートにしてきたからこその繋がりなのだと思う。(アーティストはこぞってインディーズ、自主制作という無敵の武器を使いそれを表現し続けた。)90年代カルチャーはまさにその端っこのカルチャーが増殖した時代。路地裏がメインストリートになった唯一の時代。端っこが自らのアイデンティティを主張することが許されはじめた時代。 俺は90年代と現代は共通点が多いと思っている。現代に文句があるわけでも、諦めているわけでもない。ただ、あまり面白くないとも思っている。90年代の熱狂から現代へ学ぶべきものがあるのではなかろうか。あの端っこが光輝いた90年代。皆がキワを攻めた時代。端っこ=キワ。 to “KIWA”
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Music Side
音楽はいつも、時代の“キワ”に生きてきた。90年代、ジュリアナ東京の煌びやかな照明の下でボディコンが舞い踊る一方、下北沢のライブハウスでは汗だくのバンドマンが「人生」を叫んでいた。俺が心惹かれたのは後者だ。グラマラスじゃない、雑多でノイズ混じりの“音”たち。メインストリームに届かない音。でも、それが何より“生”を感じさせた。 あの頃の音楽は、叫びだった。自分の存在を、社会から置いてけぼりにされた若者が証明するための手段だった。CDショップの試聴機、レンタル屋の新譜コーナー、タワレコの手書きポップ。すべてが“発見”だったし、“出会い”だった。音楽はSNSのように手軽ではなかった。だからこそ、偶然が価値だったし、偶然はドラマだった。 あの時代のバンドたちは、誰かに選ばれることを待たなかった。選ばれなければ自分で音を出し、自分でCDを焼いた。インディーズという響きに、誇りと敗北が同居していた。勝ち組には見えなかったけど、彼らの音には確かな「存在証明」が宿っていた。 今の音楽がつまらないとは言わない。クオリティは高いし、届ける手段も広がった。でも、時々思う。あの時代の「キワ」の熱量が、どこかに置き忘れられていないか、と。 端っこにいた奴らが、自分の居場所を音で作っていた90年代。メインストリームになれない、けれど絶対に無視できない、そんな音楽たち。俺は今もそういう音にしか心が動かない。テクニックや再生回数じゃない。“切実さ”のある音。自分をさらけ出すことにしか意味を見出せない音。そういう音楽がまた“端っこ”から響いてくるのを、俺は今も待っている。 キワ。それは、敗北と誇りがせめぎ合う場所。だからこそ、最も人間らしい場所。
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Skateboard Side
スケボーは最初から“キワ”にいた。公園でも、道路でも、駐車場でも。怒鳴られて、排除されて、それでも滑り続けた。俺たちはルールの外側で育った。禁止の看板を背景に、コンクリートの裂け目にデッキを叩きつけた。それが俺たちの“YES”だった。 90年代、原宿のストリートにいた連中は誰も「スポーツ」なんて思ってなかった。スケボーはスタイルだったし、反抗だったし、生き方そのものだった。うまいかどうかより、“ヤバいか”どうかだった。トリックの精度じゃなくて、メンタルと空気感がすべてだった。ヘタでもいい。ヘタなりに、スケートは“俺”を映す鏡だった。 デッキ1枚とアスファルトさえあれば、そこが俺たちのステージになった。街の隅っこで、誰にも認められないまま、でも自分たちだけの美学で動き続けた。それが“端っこ”の強さだった。映像を撮るのも、Tシャツを刷るのも、自分たちの手。DIYは当たり前。自己表現=自活だった。 今のスケートシーンを否定する気はない。オリンピック?いいじゃん。大勢の人が見て、憧れて、始めてくれるならそれもアリだ。でも、俺が惹かれるのはやっぱり、“怒られながら滑ってた奴ら”の方だ。誰にも頼らず、街を自分のものにしてた、あのギラついた目。路地裏でコーラ飲みながら、血まみれのスネで語ってた「次、絶対メイクする」って執念。 スケボーは、技術じゃなくて、“諦めない美学”なんだと思う。何度こけても、また立って、笑って、滑る。それって、負け組の哲学そのものじゃないか。メインストリートじゃなくて、あえて“キワ”を滑る。その感覚に、俺は今でも惚れてる。 “キワ”には、音も、カルチャーも、スケートもある。そこには敗北と創造がある。だから面白いんだ。
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MARVEL COLLECTION
「MARVEL」 (マーベル) は、80年以上に渡り象徴的なキャラクターと時代を超えて愛される物語で、何百万人ものファンにインスピレーションを与え、マーベル・ユニバースを今日のポップカルチャーの最前線に押し上げました。アイアンマン、スパイダーマン、キャプテン・アメリカ、ソー、そして多くのマーベルのスーパーヒーローたちは、世界中で多くのファンに愛され、映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、映画史に残る大ヒット作品となりました。
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